来し方、行く末


金曜日の昼下がりに、我が家に初めてのお客様を迎えた。

ともちゃんと、コハ嬢!



学校行事の帰りに来てくれたので、嬢は制服。

息子氏のちょうど下校してきたので、一緒に制服で写真を撮らせてもらった。



ふたりとも、大きくなったなあ。

出会った頃はちっちゃかったのにさ!もう嬢なんて、いい娘さんですよ。


赤ちゃんは大人になり、私たちはどんどん歳をとっていく。ちょっとさみしくて、とっても素敵なことだ。

たとえ真冬のさなかにも人は希望の芽を見つけ、春になるまで大事に育てれば花が咲き、夏の盛りを経て、秋には豊かな実りを受ける。そしてまた訪れる安らかな冬。

その繰り返しが、なるべく穏やかであるに越したことはないけれど。


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私が横浜で最初に住んだ家の話をしようと思う。

そこに暮らし始めたのは、2006年秋のことだった。

その1年前、2005年末に私たちは結婚した。

元々旦那さんは横浜に住んでいて、都内に通勤していた。私は町田に住んでて横浜の会社まで通っていたのだけど、妊娠がわかった時に社長から遠回しに退職を促され、結局辞めてしまった。

どこで子育てしたいかを考え、自分が学生時代に住み慣れていた西東京に戻りたいと思い、心機一転とばかりに2人で引っ越して同居を始めたのだけど、里帰り先で出産直前に死産となってしまったことは、以前も書いたことがあると思う。 

大阪から西東京に戻ったら、隣の家に赤ちゃんが無事生まれていて、誰が悪いわけでもないけど、壁を隔てて泣き声が聞こえてくるのが毎日辛かった。精神的に結構ぼろぼろだったので、ここですぐに次の子のことを考えるなんて到底無理だと思い、旦那さんとよく相談して、結局横浜に戻ることにした。それが2006年秋のことだ。


横浜で見つけて借りることになった新しい部屋は、緑が丘というところにあった。2階建ての小さいアパートで、建てたばかりの、とても綺麗な物件だった。

そんなに広くはなかったけれど、ちょっと変わった間取りの部屋で、居室とLDKのあいだに壁がなく、半透明の引き戸式パーテーションで区切ってあった。その気になれば、全部を一部屋にして広く使うことができたのだ。不動産屋さん曰く、外国の人に好まれる間取りらしい。

窓からベイブリッジが綺麗に見えることと、珍しくビルトインのガスオーブンがキッチンに組み込まれているところなんかも気に入ったポイントだった。 

アパートは一階に2戸、二階に2戸の計4戸で構成されていて、私たちが借りたのは二階の大きな方の部屋だった。

私たちの真下の一階の大きな方の部屋には、大家さんが住んでいた。他の2戸は小さな1DKで、それぞれに単身者が住んでいたと思う。
 


大家さんの部屋には、白い骨組みの小さなサンルームが飛び出すように付いていて、ガーデンテーブルとチェアが置いてあるのが外から見えた。

当時70代くらいだっただろうか、ちょっと個性的で素敵なおばあちゃんだ。抜けるように白い肌、オレンジ色の髪、色素が薄い目に眼鏡をかけていて、いつもムームーみたいに派手な部屋着か、丈の短い明るい色のミニワンピースを着こなしていたのをよく覚えている。

・・・ミュベールのグランマチャームを想像してほしい。そんな雰囲気を。

もともとはローマ生まれのイタリア人で、日本の血も入っているという。

「あなたたちの部屋ね、本当は私が住もうと思ってたからガスオーブンを入れたんだけど、やっぱり階段の上り下りがあるから、結局やめちゃったのよ。サンルームでお茶をお出ししますから、ときどき遊びにいらしてね。ときどきピアノを弾くけど気にしないで!」

明るく甘い声で話す楽しい人だ。
見たことがない感じのおばあちゃんだったので、これが横浜なのね、こんな素敵な人と一緒のおうちに住むのか!って感じで、ワクワクした。なんだかこういう家で暮らしたら、いいことがありそうだと思った。


そんなキュートなおばあちゃんの上の階の部屋で、私たちの横浜生活は始まったのだ。

次の子がやって来るまでの間、なるべく普通に暮らそうと思い、短期のアルバイトを入れたり、ときどき心療内科っぽいところに眠れる薬をもらいに行ったりした。LEEを読み始めたのは確かこの頃で、なるべく楽しいことを考えて落ち着いて暮らそうとするのに、たいへん役に立ってくれたと思う。

落ち着いて暮らせるようになった2007年の夏、またお腹に赤ちゃんがやってきてくれた。それが、今中1になる、おなじみの息子氏だ。前の死産のことがあったので色々気を揉みながら出産まで過ごしたけれど、2008年春に無事に生まれてきてくれた。 

みなとみらいの病院で出産し、買ったばかりの緑色のデミオにベビーシートをつけて、息子氏を連れ帰った。息子氏の人生は、あのアパートの部屋から始まった。


大家さんは子供が好きらしく、ベビーカーで連れ出す時なんかに会うと、よく息子氏をあやしてくれた。

一度息子氏の誕生日を聞かれて、3月17日に生まれたと話すと、「まあ、セントバトリックデイね!まさか、それで緑色の車に乗っているの??」と真顔で聞かれたのでびっくりした。

日本人にはあまり馴染みがない祭日なのだけど、聖パトリックはアイルランドの聖人で、毎年その日は元町商店街も緑色に染まるのだと教えてくれた。 

ときどき本当にサンルームに呼んで、甘い味の紅茶を出してくれた。マリア像とか天使のオーナメントとかがある感じのインテリアで、ピアノはアップライトだった。そこで、大家さんの来し方について色々話してくれた。 

横浜に住み始めたのは戦前の話で、まだ子供のころに、両親と一緒に来日したんだそうだ。元町公園の向かいのあたり、えの木ていの並びに今もある山手234番館という西洋館が、まだ現役の外国人共同住宅だったころに住んでいたと聞いて驚いた。

戦後、近くの緑が丘に居を移して、今のアパートに建て替えるまでの間、別の外国人家族を間借りさせたり、外国語を教えたりして生計を立ててきたという。「結婚もしたけど、旦那だった人はどっかに行っちゃった。ひとりで子供3人育てたのよ」なんて言ってたなあ。 


ときどき長男さんが顔を見せに来ていたし、いっとき次男さんが大家さんの隣の部屋にちょっと暮らしたりしていたので、その人たちとも顔見知りだった。

長男さんは私と同じ大学の出身で、だいぶ年上だったのだけど、しっかりした感じの人。次男さんは大家さんに似て色が白く、優しげで繊細そうな感じだった。

息子氏が歩けるようになったくらいの頃、その次男さんの部屋の前に置いてあった原付バイクに興味を持ってよじ登ろうとして、危ないからやめさせようとしたらぐずりだし、ほとほと困っていたら、大家さんが笑いながら出てきて、抱き上げて乗せてくれたことがあった。

可愛がってくれたのだ。どんなに夜泣きしても文句一つ言われなかった。「赤ちゃんは泣くものだし、そんなに気にするほど聞こえてこないわよ。可愛いハルキちゃん!」と言ってくれた。

どこにでも一人でさっさか行くタイプの人らしくて、丘の下のスーパーやお店でよくばったり会った。

当時まだ珍しかったコストコにも、バス電車を乗り継いでひとりで出かけて行って、結構たくさん買い物をしているようだったけれど。一緒に出かけたり車に乗せたりしたことは、2、3回あったかなかったか、くらいだと思う。足腰も心身も、とってもしっかりした人だったのだ。

私たちは、その家でとっても幸せだった。


息子氏が1歳半になるくらいの頃まで、そこに住んでいたと思う。できれば本当にずっと住んでいたいくらいだったのだけど、家族が増えて少し手狭になってきたのと、ほかにも問題がいくつかあり、少し広めの部屋を新たに探すことにしたのだ。
 

大きな問題のひとつは、息子氏が夜なかなか寝ないということだった。壁代わりのパーテーションが光を通すので、誰か一人でも起きていると完全に寝室を真っ暗にすることが難しいため、早寝早起きの生活リズムがなかなか定着せず、このままでは発達に影響するのではないかと思ったのだ。3月生まれで発語も遅く、ただでさえ心配でたまらない子だったから。

・・・この問題は引越し後のマンションで寝室を真っ暗にしても結局解決せず、夜泣きはどんどんひどくなり、最後は児童相談所に通報されてしまった。

あんなことになるくらいなら、理解のある大家さんのいるあのアパートでずっと暮らしていたらよかったのに、と今になって思う。


大家さんは、私たちが去るのをとっても残念がってくれた。

引越し先は隣の丘だったので、「近いんだしまたいつでも遊びに来てね」と言ってくれて、ちょくちょくというわけにはいかなかったけれど、引越してからも一度か二度、フラッとあのサンルームに寄らせてもらった。

それからもときどき、丘の下のスーパー買い出しに行った時に遭遇したり。

いつでも明るい色の服を着ていて、会うと「まあ、Negroさん!なんておひさしぶり!」と、ちょっと変わった発音で読んでくれる。本当は我々の苗字は「Negoro」なんだけど、イタリア人だから仕方ない。

「あの赤ちゃんだったハルキちゃんが!こんなに大きくなったのね」なんて言って。
 

毎年ちゃんと年賀状のやり取りをしているのだけど、宛名もときどきNegroになっている。大家さんは日本語を流暢に話すけど、書くのはあまり好きではないらしくて、だいたい全部英語で書いてくる。天使の絵の葉書に、宛名と、短い新年のメッセージと、送り主の署名。 


大家さんのお名前は、漢字で書くとわりとありふれた感じの、ごく普通の日本人名なんだけど、カードの署名には、名前と苗字の間に、Cecileという素敵なミドルネームがいつも挟まっていた。 

これはセシルって読むのかな、なんて思っていたけど、結局今日に至るまで、本人に直接確かめる機会はなかった。 

ともかく、そのあと引っ越した先のマンションでも夜泣きを繰り返したせいで肩身が狭くなり、私たちはそれから2回の引越しを経た。そして先月、今の家に落ち着いたというわけです。 

紆余曲折の話をここまで長々と読んでくれた皆さん、どうもありがとう。 


そして一昨日、ともちゃんが私たちの新居に遊びに来てくれた。 

ともちゃんが引越し祝いにさっちゃんの素敵なリースをくれたので、すぐにでも来てもらって、飾っているところを見せないとと思って、急に呼んだのだけど、快く応じてくれた。 

ちょうど嬢の合唱コンクールがあるというので、平日休みをとったという。お昼には終わるというので、コンクールの会場まで車で迎えに行くことにした。

それまでに掃除機をかけたり、あちこち拭いたりしているうちに、ふと思ったのだ。引越し祝いをもらったんだから、何か負担にならない程度のお返しを用意しておきたい!と。 

そうだ、引越しの日に不動産屋のお兄さんが差し入れてくれた、ハイアットリージェンシーの食パンとはちみつバターを買いに行こう。ともちゃんが食べてみたいと言っていたやつだ。


直前になって急にこんな思いつきをするなんて、なんで昨日までに気が回らなかったんだろう・・・と自分の迂闊さを嘆きつつ、早めに掃除を切り上げて、急いで身支度をした。

ともちゃんと嬢を迎えに行くのだから、可愛い格好をしなくてはと思い、ネイビーのふわふわのファーニットに、ピンクのサテンパンツを履き、しっかりお化粧をして、車に乗り込んだ。 


家をでて2ブロックほど走ったところで、近所のカトリック教会の前に差し掛かった。

いつもと違って、黒い服の人たちが数人集まっているのが見える。

うす緑の三角屋根の前に、普段はない、大きな白い看板が立っているのが目に飛び込んできた。 

故 セシリア。 その洗礼名の後に、大家さんの名前が書いてあった。


一瞬、頭が真っ白になった。血の気がザッと引いて、まさかと思いながら路肩に車を止めて飛び出し、教会の敷地を覗いた。

そこにいた黒服の人に、「もしかしてと思うんですがこの方は、緑が丘の・・・」と尋ねたら、自分は警備だからよくわからないという。

御出棺なのでおさがりくださいと返され、あっというまに黒い車が目の前を通り過ぎて出て行くのを呆然と見送ったあと、そこにいた別の人をつかまえて、もう一度同じことを尋ねた。


信じたくなかったけど、やはりそうだった。あのCecileは、洗礼名だったのだ。

さっき出て行った車には、大家さんが乗せられていたんだ。

足ががくがくと震えて、それから涙がぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。 


教えてくれた女の人は、大家さんの教え子だったようだ。

経緯を説明し、昔アパートを借りていてお世話になったこと、引越しを経て今この教会のそばに住んでいることを手短に話したら、涙を少し浮かべて、「先生もきっと喜ばれていますよ」と、やわらかに慰めの言葉をくれた。 

ご家族がまだそこに残っているから、ぜひお話ししてきてくださいと促された。路肩に停めたままの私の車を見張っていてくれるという。 


急いでそちらにいくと、アパート時代に何度かお会いした、懐かしい息子さんがいらした。話しかけると、私のことをちゃんと覚えていてくれた。

このご時世なので最低限の人にしか知らせなかったんです、名簿にあなた方の名前もちゃんとあったので、埋葬後にお知らせをだすつもりでした、と話してくれた。
 

しばらくの間ご病気で、入退院をしていたそうなのだけど、「ああいう性格なので病気のことはあまり言いたがらなかったんですよ」と。退院したばかりなのに、その4日後に亡くなったのだと教えてくださった。
 


いろいろなことが飲み込めて悲しみが広がってくると同時に、我に返った。教会の前の路肩に真っ赤な車を止め、ピンクのパンツを履いてそんなところで涙を流している自分がたまらなく恥ずかしく、大人として情けない気持ちになり、すみませんこんな格好でお引き留めして・・ご無礼をして申し訳ありません・・なんて言って頭を下げた。 

それから、車を見てくれていた優しい女の人にお礼を言って、その場をあとにした。


なんとか丘を下りてパンとはちみつバターを買い、家の近所に戻った時にはもう看板も参列者の人たちもみんなかき消えていて、もう何もかも夢だったらいいのにと思ったけれど、そんなわけはなかった。 

涙で目の周りを汚したまま、ともちゃんを迎えに行った。

あれこれ事情を話して、こんなアホみたいな浮かれた服に真っ赤な車で・・と自分を恥じたくだりまで言うと、

 「それは、きっと大家さんに呼ばれたんだよ。その人、派手なかわいい格好が好きだったんでしょう。みんな黒くて辛気臭いわねーって思ってゆきちゃんを呼んだんじゃないの」と言ってくれた。

きっと何か、ちょっとした縁のある人だったんだよ、と。 


たしかに、そうかもしれないと思えた。 

たまたま家を出なきゃって思う用事がふっと浮かんで、急いで可愛い格好をして出かけたら、出てすぐそこの教会から大家さんのお車が出てくるところに出会えるなんてことは、普通は考えられない。

そもそも、大家さんがこの世を去られたのは、ともちゃんを急いで呼ぼうと言う気に突然なった日あたりだったはずだ。無精な私だから、そんな行動にでなければ、その場に行き合わせることはなかっただろう。
 


友達は大事にしなきゃ!お家に人を招いて、いつも自分を可愛くして、楽しく暮らすのよ。

教会の入り口から出てくるすれ違いざまに、そうわたしに呼びかけて、大家さんは去っていったのだ。 

そう思うことにした。
 


そのあと、嬢と3人でレントでお昼を食べてから、うちに遊びに来てくれたので、少し元気が出た。


 

私たちもファンキーで可愛いおばあちゃんになろうね、それまで一緒に・・友達でいてねと、ともちゃんと話した。 


それでも、きっとお知らせが本当に来るまでは、信じられないような気がする。もう天使の絵の年賀状が届かないことも。あのいつもの可愛い派手なワンピース姿をサンルームの中に見つけることが、二度と叶わないことも。 



・・・・・・・ 


そんなワンダフルでアメイジングな大家さんだったわけだけど、このあとなんと、あの有名な皆知っている、港の見える外国人墓地で長い眠りにつくのだという。最後まで驚かせてくれる。

お知らせが来たら、きっと行きます。明るい色の花を持って。 


あのアパートの部屋と大家さんが私の、一番最初の横浜だったなあ。

ああ、またさみしくなってしまった。


2コメント

  • 1000 / 1000

  • yuki*

    2020.11.12 16:48

    @Tamaさん!どうも、こんばんは、LEEから引き続き来てくださってありがとうございます。今後ともよろしくお願いしますね。 大家さんは、すごいファンキーでいいおばあちゃんだったんですよ。 周りの人をみんな大切にできたらいいんですけど、基本、わたしは人見知りなので、あまりご近所づきあいを積極的にはしないんです。わたしが大切にしたんじゃなくて、大家さんが私達をとっても大切にしてくれたんですよ! ・・大家さんがいなくなっちゃったことは、すごく寂しくてたまらないんですが、いいアパートで新婚時代を過ごせた思い出はこの先もきっと無くなりはしないので、今後もずっと自分の人生においての宝物になると思います。大家さんに感謝ですね。
  • Tama

    2020.11.08 15:19

    はじめまして。LEEの100人隊の頃からyukiさんのブログのファンでチェリーハイツに移動されてからもちょこちょこ読んでいました。いつもハッとさせられたり、クスリと笑わせてもらったり、日常の楽しさや切なさとかを勝手に感じながら読んでいたのですが、今回の記事を読んでもう本当にぼろぼろと泣いてしまいました。大家さんはきっと大往生だったのだろうし、全然関係ない私が泣くのは変なのですが、tomoさんの言う通り大家さんがyukiさんを最後に呼んだんだなって思ったらなんだか泣けてしまいました。黒い服ばかりの人の中でとびきりのおしゃれをしたyukiさんを見て、大家さんもきっとうれしかったんじゃないかなって思います。そして、大家さんとそこまでの繋がりをもてるって、yukiさんがきっとまわりの人を大切にしているからなんだろうなって思いました。なんだか、初期のよしもとばななの小説のようなお話で(実話なのにすみません)、胸にぐっときて、ついついコメントを残してしまいました。