月曜の10時過ぎ、これから整骨院に行こうという前に、少し早めに出て、家の周りを歩きながら空を眺めたりしていた。雲ひとつない快晴で、何もかもが濁りなく、透明で美しい。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、どこかに煙が出ている煙突などないだろうかと、なんとなく探してしまったのだが、この方向にはそういうものはない。スマホのカメラを構えて一枚撮ったところで、ともちゃんからLINEが来た。
「元気ー?」
いきなりそう来たか。
いやはや、友人の勘というのは恐ろしいものだな・・・。そうか・・・。と、内心舌を巻きながら、「元気よー」と返事をした。
土曜の朝、ぼんやりした頭でサタプラをつけたら、マルが大阪にいた。今週、リモートじゃなくて大阪まで行ったのか・・舞台の開幕までもう幾日もないのにえらいなあ・・でもこじるりも清水アナもコロナで休みだし、頼むから無理な移動して感染したりしないでくれよう・・・
なんて思っていたら、電話が鳴った。母からで、前の日の夕方に祖母が息を引き取ったことを知らせるものだった。
電話を取る2秒くらい前に、もうそういう電話かもしれないことはなんとなく悟っていたので、一瞬だけ躊躇した。少し話して、しばらく泣いた。少しずつ起きている時間が短くなって、あまりご飯を食べなくなり、ゆっくりと穏やかにその時を迎えた様子だった。
このご時世と、本人が元気だった頃の希望を鑑み、母と伯父たちだけで簡素に送ることになったという。電話を切ってからしばらく呆然としていた。もちろん、決して想定していなかったわけではないが、まさか本当におばあちゃんを見送れないようなことがあるなんて、と。
違うパターンの覚悟は、何度かした。その時に間に合わず、横浜から大阪に行き、あの懐かしい古い家に帰ることができた、安らかなおばあちゃんと対面するタイプのやつを。でも、こんなことってあるだろうか。ある、今のご時世、普通にある。
でも、自分とおばあちゃんに限って、こんな別れ方があるとは思っていなかった。想像の何倍もふわっとしていて、鈍い重たい悲しみだった。
どれだけ世話になったことか。
母の実家が隣町になかったら、私は今ここにいないだろう。
私には、若い頃から逃避癖というか、脱走癖がある。それは、まだ本当に幼い頃から、何かあって父を怒らせると「出て行け」といつも言われていたからで、まだ小学校低学年くらいの頃から、プチ家出の常習犯だった。
普通なら家の外で許されるのをじっと待っているのだろうが、自分にはそれができなかった。田んぼや用水路のあたりをウロウロしてみたり、歩いて山を越えて親戚の家に行ってみたりした。お前はこの家にいらない、と言われることは本当に辛くて、いつの頃からか幼い心がねじ曲がっていってしまったのだと思う。
おばあちゃんの家は、実家の最寄駅から各停で2駅のところにある。両親共働きだったので、学校が短縮授業になったりすると、キップを買って駅員さんにチョキンと切ってもらい、電車に乗っておばあちゃんの家に行った。
ただいまーと潜り戸を引くと、上の方についている呼び鈴がチリリンリンと鳴る。おばあちゃんが出てきて、お帰りいと迎えてくれる。
茶の間で、おもいっきりテレビとか、ごきげんようとかを見ながら折り紙を折ったり、宿題をしたりしておばあちゃんと過ごす時間は、穏やかだった。
家にいる時はだいたい何かしらで叱られていたので、なんて平和なんだろうと思っていた。出て行けと怒鳴る人も、叩いたり蹴ったりする人もいない。何か悪いことをしてしまっても、土下座させられたり、敷居の上に何時間も正座させられたりすることもない。
それから、夫婦仲がいいって素晴らしいと思っていた。おばあちゃんはおじいちゃんが大好きだったので、先立たれてからも何かあるとおじいちゃんの話ばかりしていたし、誕生日が来ると毎年赤飯を炊いて祝っていた。本人がいなくなっても祝うくらい好きだったんだ、自分もするとしたら、そういう結婚をしよう、と憧れた。
父と母は、少なくともそういう夫婦ではないなということは、幼いながらに割と早い段階で分かっていた。出て行けと言われて、出て行く先があるというのは、大変ありがたいことだなと思う。中学に入るまでに、母に連れられ数週間から数か月単位の家出をして、おばあちゃんの家で暮らしたようなことが2〜3回あったと思う。
確か中2の時だったと思うが、最後の長い家出の後、もうどうしても父のいる家に帰るのが嫌になったので、母や弟妹が引き上げて家に帰ってしまった後も、自分だけ数か月おばあちゃんの家に居残ったことがあった。もう出て行くのも、出て行けと言われるのも嫌だったのだ。
高校に入ってからも、何回か家出を繰り返しては月単位で厄介になっていた。あまりに出て行けと言われ慣れてしまったので、完全に出て行き癖がついてしまい、何かムカつくなと思ったら、塾からも学校からもカジュアルに出て行くフラフラした子になっていた。
受験科目を調べ、どうやら恒久的に出て行く方法は早稲田だなと思って、それなりに勉強したら受かったので、18歳になった時に、やっと本当に家を出ることになった。
おばあちゃんちが隣町になかったら、悪い大人に騙されたりして、横道に逸れて人生をしくじるパターンだったかもしれない。いつでも受け入れてくれる逃げ場があるという安心感。まさに、自分にとっては最後のセーフティーネットだったのだ。
出て行けと言われない家が欲しかった。大人になって、それを手に入れることが夢だった。
今わたしは、出て行けと絶対に言われない家で暮らしている。こういうケースにありがちな、息子に同じことをしてしまうという負のループが起こることがないように、絶対に出て行けとかお前なんて要らないとかと言わないように、本当に気をつけて暮らしている。
年末、最後におばあちゃんに会った時、フェイスシールド越しに、もうよく見えていない目をしっかり見つめて、聞こえていない耳に口を寄せ、いつもするように手を一生懸命もみさすりながら、ゆきちゃんは大事にされて幸せに暮らしているよ、今幸せだよ、ありがとうおばあちゃん、と何回も言った。たった10分の間に10回くらい、しあわせと言った。
土曜の朝から、おばあちゃんが月曜の朝10時に火葬されるまでの間に、どんな別れ方だったら納得がいったのだろうと想像した。持ち前の想像力で、一連の流れをなるべく現実的にイメージした。
あの懐かしい家に横たわるおばあちゃんの姿、その温度や感触。仏間の匂いや線香の香り。母の背中を撫でただろう。一緒に泣いただろう。どんな風に話しかけたろうか。遠い遠い記憶にある、5歳の頃おじいちゃんが亡くなった時の配置を思い出して、それをなぞってみる。
出棺の後、どの道を通って行くのだろうなどと。
夜中に一人でグーグルのストリートビューで、家の周りをぐるぐる回ったり、お地蔵様が並んだ火葬場の前まで行ってみたりした。旦那さんや息子に心配されながら、そんなことを二日二晩繰り返して、月曜の朝に鏡を覗き込んだら、目の下が見たことないような黄色と黒が混ざったような色になっていたので、もうこんなことはしてはいけないと思った。
そして、その時間がやってきた。決して見えるはずのない煙突の煙を探して目を泳がせていたら、野生の勘で何かを察知した親友から、元気かどうか心配するLINEが来たのだった。
それでも、なぜかそのことをすぐには言えなかった。
だって私は、実際には何も見ていないんだもの。本当かどうか確かめていないんだもの。言ったら本当のことになってしまうから、誰にも言わないまま、このままいけるんじゃないかなどと思ったらしい。逃避癖もいいところである。
今日、ともちゃんとコストコに行く日だった。
いつものように仕事帰りを拾って車に乗せ、ひょっとしたらこのままいけるんじゃないかとか思って、途中まで普通にしていたのだけど、セブンイレブンでコーヒーを買って外に出たところで突然正気に返り、このままでは無理だなと思ったので、ともちゃん実はおばあちゃんが、まで言ったところで、喉がヒュッとなって、何かが爆発するみたいに噴出する感じがあり、そのままウワアアアーンと号泣してしまった。
決して逃げられない時というのがあるもんだなと思った。
車に乗って、色々と話した。
自分は、ヘドウィグの最前列が当たるなんて2022年も強運だ!強運すぎて怖い!などと誕生日に言っていたけれど、人生いいことがあったら悪いこともあるに決まっている。こんな辛いことと引き換えだとしたら、どんな顔でEXシアターに行ったらいいかわからん。
もうどんな顔をして六本木に行ったらいいのかわからん、と泣き言を吐き出したら、ともちゃんは「何言ってんの!それは違うよ、こんなしんどい思いするゆきちゃんのために、神様が超いいご褒美を用意しといてくれたに決まってるじゃん!マルを見て元気を出せってことだよ!」という、超ミラクルな回答を繰り出してきた。
すごいな、友達がいるというのはいいことだな。
決して逃げられないことも人生にはあるけれど、ちょいちょいの心の逃げ場所はあるもんだ。これは、これまでの人生の旅において、自分で作ってきたものだ。何もかも甘くはないけど、がんばってる。
自分の力でそれを手に入れるまでの長い長い間、私の逃げ場所になってくれてありがとう。おばあちゃん。もう私は大丈夫だよ。逃げないし、追い出されないから。
そういうわけで、しばらくは元気がないと思うけど、私は大丈夫です。大丈夫。
たまたまだと思うけど、こんな風に閉じこもっているこの数日の間に、押しピンのコーナーが好きだと言ってくれる友達が何人かいたので、もうちょっと元気になったらまた書きます。
誕生日だから自分に買ったプレゼントのこととか、セールで買ったもののこととか、読んだ本のこととか、書こうと思ってることはいろいろあったんだけど、たった数日前のことなのにもうよく思い出せないなあ。
でも、日にち薬だっておばあちゃんが言ってた。娘を亡くした時に言い聞かせてくれた。
そうだ、娘を亡くした時、棺におくるみやベビー服や、自分で縫ったものをたくさん入れて旅立たせてあげることができたので、他には何もしてあげられることがなかったけど、そのことだけは良かったと今も思っている。
そして、今回もお裁縫が私を助けてくれた。
おばあちゃんの棺には、百歳の時に私が縫ったピンク色のコットンテイルのちゃんちゃんこが入ったそうです。入れてくれた母に、ありがたく感謝しなくては。本当に良かった。
私は死後の世界も、天国も地獄もあまり信じてないけれど、おばあちゃんはおじいちゃんが先に行って待ってる場所があると信じていたし、そこには私の縫ったベビー服を着た娘も、きっと一緒に待っているのだ。
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2022.02.10 12:52
2022.02.10 12:49
2022.02.10 12:42